【小津安二郎の謎】を解く

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【小津安二郎の謎】を解く

この物語は世界の巨匠と呼ばれた『レスリー・O・スタン』と言う映画監督が、お忍びで日本に来日したところから始まる。

だが、実際に『レスリー・O・スタン』なる映画監督は存在しない。

この情報をキャッチした小学社も、そしてもう一社この情報をキャッチした文朝社ももちろん日本にはない出版社だ。

この小学社『早瀬のり子』文朝社『平山幸一』の記者二人が、スタン監督を挟んで空港で鉢合わせをし、それで二人がスタンの案内役を務める事になる。

まずスタンは『大相撲』を観たいと言うのだが残念な事に場所中ではなくやっておらず、次に観たいと言ったのが『能』観世流“恋の舞”だ。

「それなら何とかなります」と言ったのは平山の方だ。

早瀬『能』すら知らなかった。

『能』を観ながら寝てしまう早瀬…だが、現代の女性で『能』を理解するのは難しい。

『能』が終わりこの日はここで解散する事になるが、スタンが滞在しているホテルと早瀬の自宅が同じ方向なので、タクシーで一緒に帰る事になる。

早瀬スタン「『能』がお好きなんですね?」と尋ねる。

スタン「私は小津が好きなんです。小津の【晩春】を73回見ました。その【晩春】の中に『能』の観世流“恋の舞”を観るシーンがあるんです」と答える。

スタンの来日の目的『小津安二郎』監督の足跡を辿るものだったのである。

この物語は架空の設定で物語を進め、『小津安二郎』の謎について調べていくのだが、世界的に有名な映画監督で『小津安二郎』に傾倒している監督は多い。

小津監督作品の同じ映画をスタン同様に数十回観る監督もいるくらいだ。

中でもフィンランドの巨匠『アキ・カウリスマキ』監督は子供の頃に兄に小津の映画を観に連れて行ってもらい、将来映画監督になる事を志ざすほど小津に強い刺激を受けた一人だ。

北鎌倉

スタンと早瀬、そして北山はここにいる。

映画【晩春】に出て来るところだ。

そしてこの地には『小津安二郎』が眠る墓のある『円覚寺』がある。

スタン早瀬「【駅馬車】を始めとする西部劇のスター『ジョン・ウェイン』の墓碑銘には、“彼は醜く・強く・誇り高い男だった”…と記されてあるのですが、小津の墓には何と記されてあるのでしょうね?」と聞きながら歩いていると小津の墓の前に来た。

墓碑銘には『無』の一文字が刻まれていた。

出典:https://hakamiler.blogspot.com/2012/04/blog-post_17.html

スタンは平山に何て書いてあり、どう言う意味なのかを尋ねる。

平山は「無です。ナッシングです」と答える。

驚いたスタンは「WHY…世界的巨匠が何故ナッシングなんだ?」と声を張り上げる。

いったい『小津安二郎』とはどう言う人か?

何故に『無』と記したのか?

三人はその謎を解くための旅に出る事になる。

小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年明治36年)12月12日 – 1963年昭和38年)12月12日)は、日本映画監督脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。伊勢松阪の豪商・小津家の子孫にあたり、一族には国学者本居宣長がいる。日本映画監督協会物故会員。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B4%A5%E5%AE%89%E4%BA%8C%E9%83%8E

小津は1903年東京の深川で生まれるが、父の教育方針で9歳の時に本家のある三重県松坂に、母、兄、姉と共に移り住んでいた。

小津の映画を観て映画監督になった者もいる様に、小津もまた13歳の時に「トーマス・H・インス』監督【シヴィリゼーション】を観て映画監督になろうと決めていた。

小津が東京に戻って来たのが1923年(大正12年)の夏。

父親の大反対を押し切り、松竹キネマ蒲田撮影所に入所する。

現場で映画機材と格闘する事から始まった小津に、「わからない事があったら遠慮なくどうぞ」と声を掛けてくれたのが、歳は小津より3歳下だったが1年先輩にあたる『成瀬巳喜男』だった。

盟友でありライバル、成瀬との出会いだ。

小津が入所して間もない1923年(大正12年)9月1日…時計はちょうどお昼の12時になろうとしていた時の事だ。

『関東大震災』

死者・行方不明者142,807人

全壊焼失575,394戸

関東は未曾有の震災に襲われる。

出典:https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00526/

1927年(昭和2年)小津安二郎監督昇進。

監督作品第一作【懺悔の刃】を撮影。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BA%E6%82%94%E3%81%AE%E5%88%83

成瀬の監督昇進はその2年後である。

小津は監督5年目にして【生まれてはみたけれど】キネマ旬報ベストテンで1位獲得

この年、1932年(昭和7年)成瀬巳喜男も監督として【蝕める春】キネマ旬報ベストテン6位にランクされる。

それから小津は3年連続でキネマ旬報ベストテンで1位を取り30歳にして巨匠となる。

かたや、成瀬は所長から「もう芸術映画はいいよ?ウチに小津は二人もいらない」と言われる。

成瀬はトーキー(発生映画)を撮りたいと思いP・C・L(後の東宝)に移り、そこで撮った【妻よ薔薇のように】1935年(昭和10年)キネマ旬報ベストテンの1位に選ばれる。

その後の、1951年(昭和26年)キネマ旬報ベストテンは僅かの差で小津の【麦秋】が1位成瀬の【めし】が2位にランクインされた。

1940年(昭和15年)になると戦時体制が進行し内務省の事前検問を通らなければ映画も自由に撮れなくなっていた。

その後も益々強まり国家権力は映画監督試験まで行うようになる。

小津はその映画監督試験に立ち会う事になる。

そこで試験官から、「米英的」、「こともあろうに神社で逢いびきはけしからん」、「我が国の恥」とまで罵倒されたのが『黒澤明』の【姿三四郎】だった。

「黒澤くんおめでとう!百点満点で百二十点だ!合格!合格!」と居並ぶ審査官を尻目に一人大声で叫ぶ小津の評価は、審査官をも黙らせてしまい黒澤明を合格させてしまう。

黒澤 明(くろさわ あきら、新字体:黒沢、1910年明治43年)3月23日 – 1998年平成10年)9月6日)は、日本映画監督脚本家。戦後の日本映画を代表する監督のひとりで、世界的に最も有名な日本人監督である[2]。代表作に『羅生門』(1950年)、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『蜘蛛巣城』(1957年)、『用心棒』(1961年)、『』(1985年)など。妻は女優の矢口陽子

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%BE%A4%E6%98%8E

日本の映画監督である黒澤明世界的巨匠になれたのは、試験官を黙らせてしまうほどの小津の賞賛がなければ生まれてはいなかったのかも知れないのだ。

1943年(昭和18年)小津は軍の参謀本部から映画班員としてシンガポールで謀略映画を撮らせる為に派遣される。

ところが一向に撮る気配見せない小津に、軍は映画館から没収したフィルムの検閲映画室の責任者を命ぜられる。

小津の目の色は変わった。

【市民ケーン】、【ディズニー】、そして、『ウィリアム・ワイラー』監督作品【The Littie Foxes(邦題名=偽りの花園)】大きな衝撃を受ける。

ウィリアム・ワイラー(William Wyler, 1902年7月1日 – 1981年7月27日)は、アメリカ合衆国を代表する映画監督の一人。ハリウッド黄金期に活躍し、アカデミー監督賞を3回受賞し、数多くの名優を見出した。ドイツ帝国のミュールハウゼン(現・フランス東部オー=ラン県ミュルーズ)出身。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC

小津は結局、軍の映画は撮らず仕舞いで敗戦となり1946年(昭和21年)に帰国する。

戦後

帰国後、小津は次々と名作そして野心作を発表し、1953年(昭和28年)小津の最高傑作と言われる【東京物語】を撮り、その翌々年には日本映画監督協会の理事長に就任する。

そして…

1955年(昭和30年)4月18日、ウィリアム・ワイラーが来日し、小津は夢にまで見たワイラーと逢えたのだ。

歓迎パーティーは帝国ホテルで催され、そこでワイラーと小津は話を弾ませる。

ところが、シネマスコープ(画面)の話になり、ワイラーが「シネマスコープはいずれ1対2.55にしたいと思っている」と言うと、小津は「あれは郵便ポストの中から世界を覗いている様にしか見えません」と言うと、ワイラーは「すべては時の流れですよ」と言って微笑むのだ。

小津の頭の中で…

『全ては時の流れですよ』が反芻される。

1957年(昭和32年)コーク映画祭で【東京物語】が特別賞受賞
1958年(昭和33年)ロンドン映画祭で第1回サザランド杯受賞
1959年(昭和34年)映画人初の芸術院賞受賞
1961年(昭和36年)芸術選奨受賞・アジア映画祭で監督賞受賞
1962年(昭和37年)芸術院会員に選出

小津は日本一の小津から、世界の小津になった時だった。

小津はワイラーを超えた。

時代は遡り1949年(昭和24年)茅ヶ崎館

この年から小津と脚本のコンビを組む事になったのが『野田高梧』だ。

野田 高梧(のだ こうご、1893年11月19日 – 1968年9月23日)は、日本脚本家。次兄は日本画家野田九甫、娘は脚本家の立原りゅう、その夫は同じく脚本家の山内久。また、幕末漢学者野田笛浦は祖父にあたる。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E9%AB%98%E6%A2%A7

その一作目が冒頭でスタンが73回も見たと言う【晩春】である。

1949年(昭和24年)【晩春】

婚期の遅れた娘と早く妻を亡くした父の物語で、娘役は『原節子』父親役『笠智衆』が演じた。

鎌倉、東京、京都がその舞台となった。

撮影現場での小津は、普段の物腰の優しさとは裏腹に鬼気迫るものがあった。

一昨日、照明のカバーが額に落ちて3針縫い包帯をしている原節子「包帯を取って傷口はメイクで何とかして」と言う。

ワンシーン、ワンシーンに緻密な演出があった。

「その机、ちょっと東京寄りに」

「原さん、顔は鎌倉寄りだよ」

「笠さん、皮をむき終わったら慟哭して下さい」に笠は流石に「そ、それは…で、できません…」と言うと、小津は「それでは背中をむけて」と言い直した。

有名なラストシーンはこうして生まれた。

笠は「男がおいおい泣くなんてとても出来ないと思いました。私がセンセに逆らったのは後にも先にもあれきりです」と後日談で言ったが、当時の新聞で“笠は最後に居眠りをする”と揶揄もされた。

笠 智衆(りゅう ちしゅう、1904年明治37年)5月13日 – 1993年平成5年)3月16日)は、日本俳優。身長171cm[1]1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも黒澤明木下惠介岡本喜八山田洋次等、名匠の作品に数多く登場し、貴重なバイプレーヤーとして活躍。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%99%BA%E8%A1%86

1951年(昭和26年)【麦秋】撮影時の『淡島千景』談

島 千景(あわしま ちかげ、1924年大正13年)2月24日 – 2012年(平成24年)2月16日[1])は、日本女優。本名:中川 慶子(なかがわ けいこ)。愛称は「おけいちゃん」「けいちゃん」(本名の慶子から)。宝塚歌劇団出身で在籍時は娘役スターとして活躍した[1]宝塚歌劇団29期生。芸名は百人一首源兼昌の「淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守」から。弟はSteve Nakagawa名義でアメリカのハンナ・バーベラ・プロダクションやランキン・バス・プロダクションで活躍したアニメーターの中川雄策[2][3]

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E5%B3%B6%E5%8D%83%E6%99%AF

小津の映画では、セットに入った途端緊張感が走り、それは最後まで続く。

小津センセのカメラアングルは低くて、ワンカット、ワンカットが凄く短いのに凝縮した演技をしなくてはならないくて、それはもう厳しかった。

「そこの茶碗1cm東京、花瓶2cm鎌倉」

「淡島くん、お茶を置く手が早いよ」

「目が早いよ」

「じゃあもう一度、前の前の前でやった様に」

淡島は「もう何が何だかわからなくなり、ハイと答えるしかなかった」と振り返っている。

1953年(昭和28年)【東京物語】尾道ロケでは…

ロケハンでは、気に入る場所を求めて、ひたすら歩く、歩く、歩く、歩く。

ラストシーンは見下ろした街並みを撮るシーンで七夕飾りがしてあり、セカンド、サードが一日がかりで一軒一軒頼んで、この七夕飾りを全部下ろしてもらっている。

セットの撮影では1cmの位置の違いにこだわる。

「1cm鎌倉。もう1cm鎌倉」と写真の位置直しだけで朝の9時から昼過ぎまでかかり途中で腹の空かしたスタッフに「武士は食わねど高楊枝だ。そんな根性もなくて映画を撮る気か」と怒鳴ってもいる。

誰も一言も口をきかず、お通夜以上にシーンとし、他にない緊張感が漂う。

敬三役『大坂志郎』恐怖心から鳥肌が立ったと言う。

「大坂、足が開き過ぎている」

「大坂、何度言ったらわかるんだ。アクセントが違うんだ」

「敬三はそうじゃない。違う。違う。違う。違うんだ」

1958年(昭和33年)【東京暮色】出演の『有馬稲子』談

有馬 稲子(ありま いねこ、1932年4月3日[1] – )は、日本女優大阪府豊能郡池田町(現:池田市)出身。血液型はA型。愛称は「ネコちゃん」「おイネ」。ホリプロ・ブッキング・エージェンシー所属。本名は中西 盛子(なかにし みつこ)。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%A8%B2%E5%AD%90

小津映画の中で俳優は小津のオブジェの様なもの。

「違うよ、笠さん。そこで台詞、目を落としてそのまま真正面。…あぁ早過ぎる」これは脚本通りで、どんなに凄い監督さんでも撮影での台詞の変更はちょくちょくあるのに小津映画にはそれがない。

「秋ちゃんが死んだのお母さんのせい」と言って、原さんがカメラを振り向くシーンでは、それだけで3時間かかった事がある。

小津の厳しさを示す一つの伝説がある。

当時、甘いマスクで人気を誇っていた『鶴田浩二』がロケに遅れ「すみません。車がパンクしてしまって」と小津に謝ると、小津は凄い剣幕で「誰が車で来いと言った」とみんなの前で怒鳴ったと言う。

鶴田 浩二(つるた こうじ、1924年大正13年)12月6日 – 1987年昭和62年)6月16日)は、日本俳優歌手。本名は小野 榮一(おの えいいち)。兵庫県西宮市出生。静岡県浜松市出身。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演した。また、歌手としても多くのヒットを出し、独特の歌唱法でも有名だった。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E7%94%B0%E6%B5%A9%E4%BA%8C

1960年(昭和35年)【秋日和】に出演の『司葉子』談

司 葉子(つかさ ようこ、1934年昭和9年)8月20日[1] – )は、日本の女優日本大正村第二代村長。東京福祉大学特任教授[2]。本名:相澤 葉子旧姓:庄司)。東宝芸能所属。夫は弁護士で元自由民主党衆議院議員相澤英之[1]。三男・相澤宏光の妻は歌手・タレントの相田翔子

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E8%91%89%E5%AD%90

徹底した本物志向

原節子がトンカツを食べるシーンでは、わざわざ上野の蓬莱屋から取り寄せた物。

料亭のセットに飾られていた椿の絵は山口蓬春画伯の本物の絵

床の間に飾られていた絵は梅原龍二郎画伯の本物の絵

茶碗や灰皿は赤坂の貴多川と言う美術陶器のお店から借りて来た高級品なので、どれも一つ何十万、何百万する物なので撮影には白い手袋をしたガードマンが立ち会った。

司は「小津センセと原節子さんはお互い好きあっていた」とも言っていた。

〜〜〜〜〜〜小津安二郎の恋〜〜〜〜〜〜

戦後、小津は自分の作品が思うようにいかない時に「ダイコンですが原節子を使ってみてはどうですか?」と勧められる。

小津は『木下恵介』監督【お嬢さんに乾杯】を観る。

小津が唸る。

「こ、これは…ダイコンどころか…泥中の蓮だ…」

1949年(昭和24年)【晩春】小津はこの映画で初めて原節子を起用する。

節子(はら せつこ、1920年6月17日 – 2015年9月5日)は、日本女優[1]。本名は會田 昌江(あいだ まさえ)。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送っていた[3]2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%AF%80%E5%AD%90

周りでスタッフが「ありゃあ惚れてるね。でなきゃ、原節子をあんなに色っぽく撮れやしない」と囁いていたほど、原節子は光っていた。

原節子はこの【晩春】第4回毎日映画コンクールにて女優演技賞を受賞する。

原節子馬超一流の女優に花咲いた。

1951年(昭和26年)【麦秋】この映画でも小津は原節子を起用。

原節子は【麦秋】でも第6回毎日映画コンクールで女優演技賞、そして同時に第2回ブルーリボン主演女優賞を受賞する。

小津が茅ヶ崎館で次作の構想をしたているところへ、突貫こと『青木富夫』が原節子を連れてやって来て「原さんが噂が立つから一人で来られない」と言うんで連れて来ましたと言うと原節子は「突貫ちゃん、もう」と言って照れたと言う。

青木 富夫(あおき とみお、1923年大正12年)10月7日 – 2004年平成16年)1月24日[1])は、日本俳優松竹蒲田撮影所時代に名子役として活躍した。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%AF%8C%E5%A4%AB

小津の頭の中には常に原節子がいた。

そして入社当時に会社から厳しく言われていた事の「ウチの女優に手出しは厳禁だぞ!彼女達は商品、君達は丁稚だ」と言われた事も頭から離れないでいた。

1960年(昭和35年)【秋日和】完成打ち上げ

周りは「ああしているとまるで夫婦みたいだ」とか「お互い独身なんだしくっついちゃえばいいのに」とヒソヒソ話をしているところに、この映画に出演した司葉子が「ねっ、センセ。原さんをおもらいになったら?原さんところの雨戸蹴破ってプロポーズするくらいじゃないとダメですよ」と言うと二人は年甲斐もなく照れたと言う。

1962年(昭和37年)2月4日に母あさゑが他界する。

ずっと一緒に暮していた母が逝き小津は決心し原節子に電話をする。

「僕です。小津です…」
「センセ…」
「…」
「…」

「あ、あの…」
「(この時、原は…告白を待っていた)」
「し、仕事、うまくいってますか?」
「(原は予想だにしなかった小津の言葉に驚き)ええ…」とだけ答える。
「頑張って下さい。僕も新作に取り掛かります」
「…はい」

〜〜〜酒は緩慢なる自殺と知るべし〜〜〜

小津の酒量は増えていった。

それはスタジオでも匂いでわかるほどだった。

1962年(昭和37年)【秋刀魚の味】これが、映画監督としての小津安二郎の遺作となる。

「…どうしてこんな業病にかかったんだろう…何も悪いことした覚えはないのに…」

これが小津の最後の言葉だ。

1963年(昭和38年)12月12日12時40分、小津安二郎60歳の誕生日に腮源性癌腫で死去

翌日ロンドンタイムスは「偉大な日本の映画監督・小津安二郎は昨日東京で急逝。小津は一度も商業主義と妥協したことはなかったし、そのどの作品も人間的な表白の強さを持っている…(略)」と報じた。

そして『永遠の処女』と言われた原節子は、小津の通夜に出席したのを最後に女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せることなく隠遁生活に入り95歳でその生涯を終えている。

やはり小津同様に生涯独り身であった。

再び…小津の墓石の前に立つスタンと早瀬と平山。

結局、三人の旅は謎のまま終えてしまう。

その墓石の前でスタンが「無とはいったい何なのでしょう?」と呟く。

そこに現れる一人の老人

「それは、この寺の先々代の住職『朝比奈宗源老師の手によるものだと聞いています」

スタンが「あなたは?なぜ無がふさわしいのですか?」と尋ねると「私の兄が小津先生と親しくさせて頂いてました。…『無常』の無でもあり、実はもう一つ『無』の書があるのです。『揮毫』と言ったほうがよろしいと思いますが…⁉️」

1938年(昭和13年)7月 中国-南京-古鶏鳴寺の楼門前にて小津34歳

出典:https://jp.trip.com/travel-guide/nanjing/jiming-temple-75715/

そこの住職が、人の世は“無”と書する。

小津が住職に「こんな無は見た事がない。お願いします。住職もう一枚書いて下さい」と言うと住職は言葉が通じずともうなづいたと言う。

“無”なのだ…しょせん、この世の人の営みは…生あるものはいずれ滅び…不変、常住のものは…何ひとつ無い。

スタンが呟く。
「“無”…いい言葉です。これほど小津にぴったりの言葉は、ないような気さえします。今
、生きている私達…花や木やすべて、限りある存在…すなわち”無”だからこそ、大切なこの生命を精いっぱい小津は生きようとしたんだと…その揮毫が見れたら…」

その老人が言う。
「私が兄から譲り受けて、大切に保管しております。よろしかったら持って来ますが…」

その書を食い入るように見る三人。

あはれ
  秋かぜよ
     情あらば伝えてよ
 男ありて
    夕餉にひとり
         さんまを食らひて
              涙をながすと

     

「はい、カット!

『漫画大学院』

出典:http://www.garbagenews.net/archives/2034792.html

上図は日本における映画観客動員数の推移

1960年に日本映画史上で最高製作本数となる547本を製作し、ピークを迎えた。

そのほとんどは大手6社によるプログラムピクチャーでこの年以降、映画産業に翳りが見え隠れするようになった。

観客動員数はこれより先、1958年の11億人強を最高に、急激に下降し、1963年には半分以下の5億人強となった。

この背景には1953年より登場したテレビ急速な普及がある。

テレビは1959年皇太子結婚をきっかけに一般に広く浸透していった。

日本映画(にほんえいが)は、一般的に日本国内の映画館などで公開されることを前提として、日本国籍を持つ者、あるいは日本の国内法に基づく法人出資製作)している映画を指すが、詳細な定義は識者によって異なる。邦画(ほうが)とも呼称される。また、時代によって活動写真キネマ、シネマ等とも呼ばれる。…….

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%98%A0%E7%94%BB

あの時代にしては、映画一本の製作にかける費用も時間も潤沢だったに違いない。

…でなければ、小津監督の様に、写真の位置直しだけで朝の9時から昼過ぎまで時間を割く事は出来ない。

それだけ会社も監督も映画そのもの、そしてワンカットにかけるモノは大きかったはずだ。

逆に、多様化、細分化、そして何事にも進化した現代社会では、映画も社会同様に何でもあり…では表現が荒いが、融通が効く社会でもある。

例えば、一例を挙げるならば2017年製作・公開の映画【カメラを止めるな!】製作予算300万円で撮影に要した日数は6日間で、興業収益31.2億円のヒット作になった。

実際にこの映画の冒頭の37分間はタイトルの【カメラを止めるな!】同様にワンカット撮りになっている。

この映画で製作者側に4割の配当があった為に12億円の利益を上げた事になる。

映画製作でも一発当てれば儲ける事も出来るのである。

それでは、映画でも製作してみようかと言う方の為に『漫画大学院』自主映画製作講座に入る。

その前に私はテレビ屋だが一度だけ映画製作にも携わった事がある。

作り方にさしたる違いはない。

大きな違いがあるとすれば、テレビドラマは制作映画が製作と言う文字面だけかな⁉️(笑)

①まず企画を考えるところからで、映画のコンセンプト、タイトル、ストーリー、キャスティング、上映方法を考える。

②次にシナリオ・絵コンテに移るのですが、テレビドラマとの大きな違いは、この絵コンテがある事ですかね〜カット分だけ絵コンテが必要になります。

③準備の事を映画ではプリプロダクションと言いますが、これは主に予算やスケジュールを管理するプロデュサーの役目で、監督が指揮を取る製作チーム、カメラ・音声・照明等の技術チーム・衣装・大道具・小道具・メイク等の美術チームが話合い、打合せやロケハンをし、キャストは顔合わせや本読みをします。

撮影、シューティングに入ります。

編集は主に編集所で行い、膨大に撮ったカットを繋ぎ合わせ、そこにBGMや効果音を重ねる音響効果の作業をします。

⑥こうして完成されたものをミニシアターや名画座で公開する方法と、配給会社を通じて全国の映画館で公開する方法があります。

映画製作にかかる費用は、機材費、ロケ費、衣装費、美術費、人件費、保険費、納品費などですが、だいたい製作は足が出るものですから、管理費や予備費も考えておく必要はありますね。

さてと最後に予算ですが通常はスポンサーシップで行いますが、自主製作の様な予算が無い中で映画製作をするにはどうしたらいいかですが、クラウドファンティングを活用したらいいですかね?

クラウドファンディング英語: crowdfunding)とは、不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを指す、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である[1][2]。ソーシャルファンディングとも呼ばれ[3]、日本語では「クラファン」と略されることもある[4]

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

2016年に公開されて大ヒットしたアニメーション映画【この世界の片隅に】もこのクラウドファンディングで3,900万円を集め、興行収入は20億円を突破している。

さてと、目指しませんか?『映画成金』(笑)

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